2016年2月27日土曜日

元旦Hoe

数日前から、天気予報と天気図をみて、元旦は風が穏やかになり天気も良くなる可能性が高そうだなぁと一人でウキウキしていた。


特にこの冬の時期、日本海を低気圧が通り抜けるたびに、相模湾のどんずまりに位置する葉山などの湘南の沿岸部と違って、僕が住む伊豆半島の先っぽにある南伊豆はとにかく風が止むことがほとんどない。

風速10メートルを超える西風か、そうでなければナライ(北東風)が休みなく吹き続ける。

日本列島からドーンと太平洋に異常に突き出た感のある伊豆半島の険しい山々や陸に沿って風のエネルギーが回り込んできて、半島の先に近づくにつれて風の力が増大し強まり、僕らが住む伊豆半島の先端の南伊豆の海上に向かって空気のエネルギーが発射するような感じで突風がずっと吹き続けるような状態で風力が強まるのだろう。

そして凄まじのは風だけではない。遠州灘と相模灘が交差するこの海域は、東シナ海から北上して日本列島に沿って流れてくる黒潮の本流が龍のように不気味に蛇行して動くのに連動するかのように西からの黒潮の分流と東からの逆流が発生したり、ぶつかり合ったり、海底からもりあがってできた無数の根や暗礁の岩肌を潮流がかけ登るように湧きあがり、海面のあちらこちらに三角波や渦を不規則につくりだすのだ。

南アフリカの喜望峰と比べられるほど、南伊豆の海は江戸に行き来する太平洋航路の最大の難所として昔から船乗り達に恐れられ続けた。財宝を積んだまま国内外の船が海底に沈んでいるということだ。今でも風が強い日は、巨大なタンカーでさえ風待ちをして、この海域を通過するタイミングを調整するらしい。

そんな過酷な海と季節風が強いこの冬の時期にもかかわらず、奇跡的に2016年の元旦の朝は予報通りに風も穏やかになり、そして天気も快晴になった。

昨年の夏から新しい気象衛星ひまわり8号が運用され始めて以来、天気予報の精度は断然向上した。そのお陰でボヤージングの計画をたてやすくなったのは確かだ。昔の人は、雲の形や色、夕陽の色や星の輝き形、鳥の声を聞いて日和見(ヒヨリミ)し、海を渡るか、待つか、判断していたらしいが、そういう能力が無くなった僕たちは、天の声ならず人工衛星の声を聞いて航海をするのだが、それでもやはり最終的な判断は、当日の海と空模様を見て、その時の気分というか直感で海を渡るかとどまるかを判断したほうがいい。


元旦の初日の出が、弓ヶ浜からみて、ちょうど利島の方向に昇るのはわかってた。
『一年の計は元旦にあり』2016年にかける願いと祈りを込めて、海が好きでも、いろんな理由で海に向き合えない、漕ぎたくても漕げない仲間のために、そして島々を目指すオハナたちへ少しでもいい刺激になればと思い、前日に利島へのv-1での単独ボヤージングを決心したのだった。

冬の日が短い時期であるのは分かっていたが、利島まで約40キロを漕いで行き、そして利島の神社に初詣してから、その日のうちに漕いで戻って来るつもりで浜辺にカヌーを置いた。淡く明るみがかった空と『け嵐』の影響で幻想的な空気に包まれた海に向かって、弓ヶ浜を日の出少し前に漕ぎ出でた。




風がそれほど強く無ければ、潮流だけであれば、日頃の経験でどうにか問題なく1日で往復できると思っていたが、予報はやはりあくまでも予報で、北東風、進行方向左前方もしくは間左からの風が思ってた以上に強く、それに伴う左からのウネリで、僕のカヌー、V-1(タヒチアンスタイルのラダーが無い一人乗りカヌー) のアマ(カヌーの左側にある転覆防止のためにフロート)が上がったり下がったり、ウネリと波と風に翻弄されて、漕ぎにくい状態が結局は利島の島影に入るまで5時間以上続くことになる。

海水が空気よりもかなり暖かいことで起こる神秘的な自然現象『け嵐』は、タライ岬をこえて外洋の海に出た途端、北東の風にかき消されて視界が晴れ渡り、神子元島も利島も、そして新島も神津島も、日の出前のオレンジ色の空と濃紺の海とのはざまに黒々と浮き出るような感じではっきりと見えてきた。

いやな北東風だったが、それよりも、元旦という一年の最初の日の太陽に向かって漕げるということで気持ちが高揚し、その状況に自分自身が酔いしれていたのか、最初の1時間ほどは、それほどの緊張や恐怖感も無く、潮流が複雑な石取り根と横根を避け利島の東海岸を目指して何も考えず漕ぎ進んでいた。

風が東から吹いていたのと、黒潮の本流が北に下がっている(近くまできている)ことで起こる東から西に流れる逆流が強いという海上保安庁の海流予想を事前にみて知っていたので、利島までの直進コースよりも大きくに東(大島方面)よりを目指して、神子元島を右手遠くに見ながら漕ぎ進めて行った。

今回のボヤージングで、北東風と東前方からの潮流と同じくらい、いやそれ以上克服するのが大変だったのは、『恐怖心』だった。
 V-1で、日の短い冬の大海原を一人ぼっちで島渡りすること…
ハッキリ言ってその恐怖感はかなりのものだった。

もちろん携帯電話は持ってたし、浮き具も持っていた。南伊豆に引っ越してきてからは風速10メートルの逆風や横風の中、何度も漕いでいる。V-1 では熊本の水俣から葉山まで4ヶ月かけて漕ぎの旅を続けたこともある。でも、それは日の長い夏のこと、岸から10キロも離れて漕ぐことはなかった。

今回の旅は冬の、それも40キロの外洋島渡り。恐怖心と不安にかられると、次から次と、よからぬ事が頭をよぎることになる。アマ側からのウネリと波のため、v-1の小さくて簡素なアマは常に海水をかぶりアマ全体が見え隠れする。このままアマが壊れて水が入って浮かなくなったらどうなるのか…などなど、不安に思う気持ちをかき消すのに一苦労した。もしも曇り空で、視界が悪く、寒いどんよりした海だったら、はやばやと途中引き返していたことだろう。しかし今日はまさに"The Day" 特別に与えられた日だと感じていた。



タライ岬を超えてから、ずっと、くっきりと神々しい、洋上の神奈備、十番目のしま、としま『利島』が僕を引き寄せる様に魅力的にかがやいてた。この時期にしては暖かい御天道様が僕の顔と海路を照らし続けてくれた。勇気と信じる力が身体中にみなぎり、荒波に立ち向かわせてくれた。そういう大いなる自然の導きのおかげで、利島まで6時間かかっても(4時間半で渡る予定だった) ボヤージングを続けることが出来たのだとつくづく思うのだ。

ボヤージングは、漕ぎ力や体力だけでなく、何時間かかっても必ず目的地に到着するという強い精神力、自分は大丈夫だと強く信じる気持ちが大切だとあらためて分かった

時間にとらわれたくないという事もあり、普段から時計を持たないので、どのくらいまで来たか、何時ぐらいなのか…を知るには、太陽の高さと、伊豆半島や新島の山々の見え方と、利島や鵜渡根島(うどね)、の大きさで判断するしかないのだけども、ずっと見え続けてる利島がいっこうに大きくならない、なぜかあまり近づいてるように感じないのだ。

後ろを振り返り、神子元島がどのくらいの大きさに見えるかで、何キロぐらい来たかを判断する。標高があまりにも低いために、弓ヶ浜からは見えることがない式根島の可愛らしいと思えるほど平らな島が、島の西側に見えてきたので、確実に南の海域に漕ぎ進んでるのは分かるのだけれど、気分的にまったく利島に近づかないのだ。

相変わらず東からのウネリというか潮流が激しく僕とカヌーを右に右に(西へ西へ)と新島方向へ押し流す。何度このまま、行き先を変更して新島もしくは式根島目指して潮流と風に押されてダウンウインドで漕いだほうが楽なんじゃないかと思ったことだろう。でもその度に、正月を返上して僕を待つ、オハナのミカちゃんとその家族が、きっと僕を待っていると思い。気を取り直して逆潮の中、利島に向かって漕ぎ続けた。

いつも、日本の海を漕いでいて、一番危険だと思うのは、自然の中に存在する波や風や雨や雷ではなく、人間が作ったものだと思う。コンクリートの防波堤だったり、テトラポットだったり、定置網だったり、何よりも怖いのは、漁船や大型船舶だ。彼らは道路を突っ走るダンプカーが歩道を歩く子供達や自転車にまったく気を止めないのと同じように、動力にものを言わせて、おらが海を全力で大きな引き波と重油の匂いを残して突っ走っていく。

日本では、古代から、海に出る人達、海に生き、大自然と共生する漁民や海人たちは、陸の社会に生きる人間とは違って特別な存在、異質な存在だった。それはある意味において神聖さがあった。それが近代になって、自然の砂浜だった湊や浦は、海と断絶するような高いコンクリートで囲まれたー港に変わり果ててしまった。

櫂や櫓を通して人間の力と叡智と、海と調和することで海を渡ることができた舟は、いつの間にかガソリンを海にたれ流し、けたたましいエンジン音を空と海中に響かせながら海を突き進むことが出来るようになった。早く安全に海を渡れるようになった代わりに、すべての神聖さと叡智は消えて無くなったのだ。

この南伊豆の沖の海、特に利島と伊豆半島の間の海域は、関西や九州方面から浦賀水道を通って東京湾に入る船舶がすべて通る航路になってるので、ひっきりなしに右から左に、左から右に、大型の貨物船やタンカーが通る。僕みたいな小さなカヌーは木の葉同然。波頭との見分けがつかない大きさなので、大型貨物船からはほとんど認識できないだろう。見えたとしても、決して道を(海に道は無いけども) ゆずってはくれないから、僕が船のスピードと進行していくであろう航路を予測しながら漕がなければいけないので、かなりのの神経を使うことになる。遠くに見えたタンカーも、ウネリや波に注視しながら漕いでいる間に、つの間にかすぐ近くまで接近していたりして、焦ることもたまにある。ただ、今回は元旦だったということで、かなり船舶の航行が少なかったのはラッキーだった。

利島まで10キロほどの海域だっただろうか、通常は横切ることが殆どだと思って気がけていなかった後方から突然現れた大型貨物船が、大きな汽笛を鳴らして迫ってきた。ちょうどその辺りは利島に連なる浅くなった海底に海流があたって盛り上がってできる潮流とうねりと風が複雑に荒れた海面をつくっている海域だった。ウネリの頂上を漕ぐタイミングで、どこが安全な海面なのかを確認しながら集中して漕いでいたので、その貨物船が後方から接近していることに全く気づかないで漕いでいたのだった。俺はすぐに漕ぐ手を休めた。しかし、その貨物船は、威嚇するつもりで汽笛を鳴らしたのでは無いということがすぐに分かった。さっきの高音の汽笛とは違う低い音域の優しげなクジラのような汽笛を鳴らして僕とカヌーに向かって進んで来たので、僕は手を振り応えた。貨物船はスピードを落として僕のすぐそばを、なるべく引き波をたてないように注意してゆっくりと通過して行ってくれたのだった。

この正月の冬の海を、細くてちっぽけな海を這うように進む丸木舟に裸の男が乗ってて、さぞ大型貨物船の人達はびっくりしただろう。もしかして、漂流してるのかと心配して近づいて来たのかもしれない。あまりにもその貨物船は大きくて、しかも背が高すぎて、船の操縦をするブリッジ内の人達の顔までは確認できなかった。その後、その貨物船は大島の北の方向に通過して行ったのだった。

それからしばらくしてから、利島の桟橋を出港してきた神進汽船のアゼリア丸が新島に向けて通過していく姿が遠く前方にみえた。その時点で、もうすでに11時半過ぎているとわかり、今日中に漕いで帰ることが出来なくなったと確信した。

利島の手前は、大島の方向からの流れが強くて島になかなか近づけない。島の西側(位置的には南に位置する)に見えている鵜渡根島のほうがどんどん近づいて大きくなってくるように感じるのだった。そこで利島の東海岸にある桟橋を目指して潮流に逆らって漕ぐのは止めて、まずは利島の島陰に入るような感じで大回りを覚悟で西側の海岸に近づいた。木々や岩肌が手に取るように見える距離だ。もう今日中には漕いで帰れないという失望感と少しの安堵感で、何となく急ぐ気持ちはなくなり、そこでカヌーに載せてきたオレンジを一つ食べてひと休みした。

今回のボヤージングの荷物は、オレンジとバナナ一つづつと、ポカリスエットのペットボトル、そして、Tシャツとパタゴニアのフーディ二とパレオ、そしてタオル、海の旅は、極力荷物が少ないほうがいい、『簡素さ』は旅の重要な部分だと思う。物や食べ物は、足りないくらいがいい、足りなければ、必要であれば、旅先でお世話になればいいし、物乞いすればいい、足りなさに耐えることが出来る体力と精神力をつくればいい。何もない、自然のまんま、それが一番いい。人生と旅は同じで、何もかかえこまないほうがいい、持ちすぎると豊かにみえて実はそうでもないのだ。荒波の中、一度でもひっくり返ってみればよくわかるだろう。散乱して浮いた荷物を拾いあつめるのは至難のわざなのだ。海に出るときはシンプルに…それが僕のポリシーだ。だから物がたくさん積めないカヌーで必要最小限の荷物で海を旅するのが大好きだ。身辺は単純明快がいい。

話が脱線してしまったが、今回の利島へのボヤージングだ。OC-1ではなくラダーが無いタヒチアンスタイルの一人乗りカヌーのV-1を旅の友にした理由の一つはここにあるV-1には、足元やシートの下などに空間があり、バックパックぐらいのおおきさであれば、荷物を積むことができるのだ。もちろん海水も入り放題だけど。

OC-1は、シットオンタイプだから、海水が侵入してくることは無いけども、ペットボトルぐらいしか荷物を載せる場所がないのだ。今回、日帰りが出来ない可能性も予想して、この冬の時期は着替えが必要なのでV-1という選択になったのだ。

僕はいつも海を漕いで渡る時に、V-1にするか、OC-1にするか直前まで悩んでしまう。
どっちのカヌーで漕いだほうが、今日の海は楽しいのか、安全なのか…が判断する理由になる。
東日本大震災の後に各地の砂浜に上陸し祈りを捧げ、野宿を繰り返しながら熊本の水俣から葉山まで漕ぎ続けた『海からの巡礼の旅』の時も、僕はV-1を使って旅を続けた。やはり、その時も荷物を載せることが出来るからV-1を選んだ。

せっかくだから、ここで少しV-1とOC-1の違いを書いてみよう。
荒れた海で、風や波に反応して無事に早く目的地まで海を渡れるカヌーは断然ハワイ生まれのOC-1だ。足でペダルをコントロールしながら、腕は単純に水を前で掴んで後ろに押しやりながら漕ぎ続けるだけで行きたい方向に、風にも波にも逆らって、時にはウネリにも乗って、どんなに荒れた海でも前に前に行きたい方向に自由にカヌーを進めることが出来るからだ。しかし、タヒチ生まれのV-1は、そうはいかない、方向転換をするためのラダー(舵)が付いてないのだ、腕とパドルを使って、身体のひねりや体重移動を使って、カヌーとパドルを全身でコントロールしながら行きたい方向に進んでいく。風や波や潮流の力を利用し、海と調和しながら漕いで行く感じだ。

穏やかな海で、シンプルに海との一体感を感じたいなら断然V-1だと思う。ここでもう少しV-1とOC-1を比較してみたい。V-1が普及したタヒチの島はほとんどが環礁の中にある。ウネリが入ってくることがない穏やかでフラットな海だ。穏やかな海だとラダーがない分水の抵抗も少ないので細くて長いV-1は断然早い。そしてラダーが無いからラダーを暗礁や浅瀬にぶつけて壊すという心配も無い。海面が膝下ぐらいの深さでも安心して漕げるのだ。

ちなみに、ラダーが壊れたOC-1をコントロールして漕ぐのは至難の技なのだ。OC-1が主流になってるハワイは、浜から海に出たらそこはもう外洋だ。貿易風が絶えず吹き続ける太平洋のど真ん中の海だ。ハワイの島々は環礁島ではないので外洋のグランドスウェルがそのままビーチに押し寄せてくる。よほどの熟練の漕ぎ手じゃない限り、そのウネリをラダーがないV-1でコントロールしながら漕いで進むのは難しい。

話をボヤージングの続きにもどそう。緑に木々に覆われ、円錐形の急斜面に建物も家もほとんど見えない利島の北西海岸の島影にたどり着いてからは、島沿いに、島唯一の港がある島の北東へと漕いで進んだ。東からの潮の流れも弱くなり、海面も穏やかになり、風もだいぶ弱まったようだった。御天道様も相変わらず元気に陽射しを降り注いでくれている。すぐ頭上にヘリポートがあるらしく、突然ヘリコプターが飛び立って大島の方向へ行くのが見えた。反射的に手を振った。まさか、明日、海が大荒れで船が欠航し、この時間のこのヘリコプターに自分が搭乗することになろうとは、その時は思いもしなかった。

ドーンと海に突き出た感のある、コンクリートの桟橋が近づいてきた。
海面から1メートルの高さもない僕の視界からは、ビルの10階建の屋上から釣り糸を垂らしているように見える釣り人たちが、驚いてこちらを見てる。一つ目の桟橋をすぎると、もっと長くて巨大なコンクリートの桟橋が見えてきた。



利島は洋上の神奈備、洋上のピラミッドとでも呼んでいいだろう。海底火山の先っぽの部分が海に顔を出す感じで島になっている。標高508メートルの宮塚山そのまんまが島そのものなので、どこにも天然の入江や平地のない円錐形のこの島は、巨大なコンクリート桟橋のおかげで物資が届き、漁船や客船が安心して停泊できるのだろう。それでも、風やうねりをまともに受けるこの島の冬場の定期船の就航率は30%らしい。

縄文時代から人が住んでいたそうだけど、浜も入江もないこの島で、どうやって彼らは小舟を海に浮かべ、他の島々や本土と行き来していたのだろう。古代人の叡智、体力、精神力は、僕たちの想像をはるかに超えるのである。少しでも彼らにあやかりたい、近づきたい…と思いながら海に出ている僕だけど、漕げば漕ぐほど、海を知れば知るほど、古代の海洋民族の偉大さには到底足元にもおよばないと痛感する。

そんなこんなで、現代の裸の漂流原人は、コンクリートの堤防に囲まれた人工の利島港に無事に漂着した。元旦早々、長らく待たせて、心配かけてしまったにもかかわらず、ミカちゃんとその家族と友達は、古代から島に伝わる『海上からやってくる来訪神』を手厚くもてなすように、僕とカヌーを満面の笑顔で利島に迎え入れてくれた。

2016年元日の天候
天気は晴れ、
北東の風4~5メートル
うねり4メートルのち3メートル

この時期の黒潮の位置と潮流
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN3/kaisyo/kaikyo/sokuho/2015/51/sokuho.pdf

使用したクラフト
タヒチメイドのFai Va'a 製V−1(ラダーレス一人乗りカヌー)

最後に…
島へ渡るには、
人間をすてて、理性をすてて、知識をすてて、
動物になってva'a (カヌー)を漕げるか、
海という世界、そして、うねり、波、風、潮流 とひとつになり
前に進み、島を目指せるか。それが上達のカギだと思うよ。