2016年12月6日火曜日

『生き生きとした宇宙とつながる場所』

僕は、日本に帰る飛行機の中で、そして成田に到着してからもずっと考えていた。

僕らが漕いで渡った、あまりにも神秘的すぎる島々のことを。

文明を拒絶する、原始的で魅惑的な島々のことを。

Huahineフアヒネ島,  Raiateaライアテア島,  Tahaタハア島,  Bora Boraボラボラ島。

太陽のパワーが凄まじく、星は降りそそぐように輝き、空は透けるように高く青く海は限りなく蒼く、ラグーンはミルクのように白い。

青い空をつらぬく山々は宇宙に向けて緑の光線を発して見える。

全てがピュアでシンプル。太古のエネルギーがそのまま存在する。
澱んだものや、くすんだものを感じられない。

そんな、『生き生きとした宇宙とつながる場所』で、僕ら日本男子10人が力を一つにして渡ったのが、ソシエテ諸島、Hawaiki Nui の島々だった。

古代の太平洋に生きた人々にとっての、起源であり、桃源郷であり、理想郷と呼ばれる『ハワイキ』を目指し、4つの島々を漕いで渡るレース。

それが世界一美しく、過酷なカヌーレース『Hawaiki Nui Va'a なのだ。

タヒチ島のパペーテに早朝到着した僕たちを迎えに来てくれたのは、Hawaiki Nui Va'a を主催し運営する協会のプレジデント、女性のTuTuさん。そして、そのスタッフ達だった。

パペーテは山が海に迫っていて平地が少なく、海岸線に沿って欧州風の古ぼけた低い建物が建ち並ぶ、タヒチで一番の港街だ。



TuTuさんの英語を話す甥の男の子が運転し、TuTuさんはじめ僕ら総勢10人を2台の車に乗せて、15分ほど行った海辺の教会の施設に連れて行ってもらった。

カトリック系の教会施設で、開放的な平屋の部屋にシングルベット大のマットレスが10枚騒然と敷いてあった。長旅で疲れた僕らが横になって休憩できるように用意してくれたのだ。本当にありがたい。



そこで、手作り風のタヒチアン料理をいただき、昼寝をしたりゴロゴロしながら時間を過ごしているところに、TuTuさんの御主人であり、F.T.Va'a  (タヒチカヌー連盟) の会長でもあるDito さんが来て、彼が代表をつとめるカヌークラブに連れて行ってくれた。


そこには、いろいろなヴァアが置いてあった。そこで僕らはレースで借りるVa'a 6 (V-6)と同じ作りのカヌーを使って、軽く練習をさせてもらった。

砂浜ではなく、コンクリートのスロープからカヌーを海に浮かべて、初タヒチアンスタイルのヴァア1艇を10人で交代ししながら漕ぐ。皆にとって初めてのタヒチの海をのんびりと漕がせてもらった。

僕らがスロープで交代する度に、小学生くらいの沢山の子供達がV-1を自転車でも乗り回すかのように、自由にのびのびと漕いだりひっくり返ったりして遊んでいる彼らの姿はとても印象的だった。



夜の8時頃、Ditoが迎えてにきてくれた車で、賑わうパペーテ港に向かった。11時過ぎ出航予定のTahiti Nui という大型貨物客船に乗船するためだ。

なぜ出航3時間以上も前に行く必要があるのだろうと思っていたら、現地に着いて驚いた。パペーテの波止場は大勢の乗船する人達と、見送りする人達とメディアの人達とでごった返していたのだ。



予定を大幅に遅れ、夜中に出航したTahiti Nui Huahine 島に到着したのは、朝の7時ぐらいだった。デッキに出るたびに、随分とのんびりと走る船だなぁと思ったが、それは到着時間を調整し、あまり早朝に到着しない為のようだった。見るからに定員オーバーの客と小型の舟を積み重ねたTahiti Nui は、星明かりだけの海を悠々と進んでいるのだった。

僕は船内のエアコンと独特の船舶エンジンの音が耳障りで、ほとんど寝むれないでいた。しかし通路やデッキで寝ている人達も大勢いるのを見て、TuTu さんによる特別待遇により全員が余裕で椅子に横になれるように席取りをしてくれた事を知り、ありがたく感動した。



時差ぼけと、前日の飛行機での夜に引き続き、2日連続でエンジン音が鳴り響く乗り物の中で夜を過ごすのは、53歳の田舎暮らしに慣れた老体にはかなり身体に堪えてるようだった。

明け方になり、デッキに出た。僕らが乗ったTahiti Nui は、碧一色の海を静かに進んでいた。Huahine島のその神秘的な姿を遠くから眺めながら、吸う空気は妙薬の様に身体に染み込み、僕の旅の疲れは、一気に吹っ飛んでいくようだ。




島に近づくにつれ、その美しさが増していく。目の前で変化する空や海や島の色の変化に釘づけになる。これこそ夢にまで見た、太平洋の桃源郷と呼ばれるHuahine 島なのだ。

叫びたく気持ちを抑えて、すでに刺すような陽射しが照りつけ始めたデッキの上で、心地良い海風に吹かれながら、太古そのままの島の海岸線に目を凝らし続けた。




僕達を乗せたTahiti Nui は、大きく口を開けた環礁の間を抜けて、湾の奥とHuahineの港に向けて進んでいく。陽気な声が飛び交う小さな波止場に到着した僕らは、ピックアップトラックの荷台に揺られ、波止場から徒歩でも行けるすぐの場所にある宿舎に送迎してもらった。


そこには、教会学校と、教会関係者の平屋の家が隣同士に建っていた。ここがレーススタートまで過ごすことになる宿舎と食堂だった。僕らが寝泊まりすることになった平屋の家にも、隣の教会学校の教室にも、沢山のマットレスが床という床すべてに敷いてあり、まさに雑魚寝状態。これがレース期間中の各島でのスタンダードだということが、なんとなく理解出来た。

このHuahineでの宿泊施設は、隣の教会学校のトイレもシャワーも使えるので、何も不便なく過ごすことにが出来た。朝昼晩と、清潔そうな学校の給食室で大勢の地元のVahine (女性)78人が愛想を絶やすことなくクッキングをし、食事の時は笑顔で食べ物をどんどんとサーブしてくれる。



ここには、僕らJapon Team だけでなく、TuTuさんをはじめ、レースのボランティアスタッフ、海外からの取材クルーなどなど、200人以上は宿泊していたと思う。
レースまでのHuahine島での特設大会本部といった感じだろう。

Vahine 達は、毎日、お揃いのムームーや、お揃いの清潔そうなTシャツとパレオにという南国ならではのいでたちで毎朝早朝から夜遅くまで13食の食事ごとに僕らを笑顔で迎えてくれた。

陽気でくったくのない輝く瞳を持つ子供達とは、言葉は通じなくても、不思議と日に日に意思の疎通が出来るようになっていくようだった。それは未知の過酷なレース前の、いつの間にか緊張した僕らの心を十分に癒してくれる存在だった。



Huahine島の魅惑は、船から観た姿だけではなかった。マラエ(ハワイで言うヘイアウ、聖域)が点在し、たくさんの入り江には、まるでゴーギャンの絵画に出てくるような、野蛮的な緑に覆い閉ざされた中にうごめく神秘的な姿がそこにはあった。

Huahine島での練習初日、地元のクラブで有名なあのMatairea Hoe にヴァアを借りに行った時、Uncle Tinoと地元の人達に呼ばれている大きなオジサン(と言っても俺よりも若い)が偶然砂浜にいて、“モーターボートで伴走してあげる“と声をかけてきた。

漕ぎ手6人以外のメンバーがそのモータボートに乗り込み、レースのスタート地点辺りを何度も行き来しながら、クルーを海の上で交代しながら練習をした。
最初は何も言わなかったTinoだが、そのうち我慢が出来なくなったのか、大きな声で手を大きく開きながら叫び始めた。

『もっとマナを感じて』

『もっと宇宙とつながるように』

"mana"  "universe" という片言の英語が聞こえてくる。

『一漕ぎ一漕ぎ力強くマナを込めて』

"use your mana" "use your force" 彼の怒大声もエンジン音にかき消される中、彼は必死に身振り手振りで伝えようとするのだった。

コーチングをお願いしたわけでもないのに、必死に何か大切なことを僕らに伝えようとしてくれているようだった。何度も、何度も繰り返す
"Mana" という単語は、漕ぐ僕らに海を通して伝わってくる。



よほど彼の目から見て、僕らはただ水面をピチャピチャとたたくだけの様に見えたのだと思う。地球を感じ、宇宙を感じ、海と自分とヴァアを循環させて、一人一人が地球という生命体の一部になって漕いでるようには見えなかったのだろう。
そのことは凄くショックだったけども、レースの前ということもあり、何も皆には伝えなかった。

1時間ほどで練習が終わり、最後のセッションをステアで終えた僕に、

『ヘイ Peperu ! パワーじゃなくて、もっと舞って』

"swing" "dancing" と言われた。タヒチアンにコーチをしてもらったのは初めてだったので、彼の独特のコーチングは僕だけじゃなく、皆にとっても衝撃的だったと思う。

練習が終わってからも、Tinoは、マナ、mana と山や海を指差し、天を仰ぎながら大声で何かを伝えようとしていた。スコールが降り出した空を指差しながら、

『ネ!マナは全てを与えてくれる、天然のシャワーだよ』

と上機嫌だ。赤ワインを片手にボートをドライブしていた様なので、少し酔いも回っていたと思うけど、水道の横の不衛生そうな場所にあった今にも壊れそうなドラム缶の様な大きなゴミ箱を叩きながらリズムをとり、聞き覚えのある"Haka" を大きな声で唱えだした。

『太陽の輝きの中へ、太陽の輝きの中へ』という有名なマオリのKa Mate のリズムに似ていた。アンクルTinoからの教訓は、

『もっと壮大な自然と宇宙を感じて海を漕ぎ、舵をとれ!』

僕の心に、ズッシリと帰国した今も響き続けている。



レース前の2日間、実際にレースで使用するDitoのカヌークラブから借りたヴァアを使って練習をした。ヴァアの名は "Autea" 魚のアジの意味だ。

Tahitian スタイルのVa'a 6(V-6) をリグするのも、準備するのも、全てがオーシャンにとっては初めてだったので、色んな場面で手こずることがあったけども、僕らの隣に陣取って準備しているAir Tahiti Nui チームのパドラーや、同じ宿舎のMou'a Tamaiti No Paparaの親達が、何かと親身になってくれたおかげで、無事にリグを完了し、HuahineのラグーンにAutea 号を浮かべることができた。



主催者のTuTu を中心とする大会ボランティアの人達のサポートだけでなく、Air Tahiti Nui の乗務員でもあり、TuTuさん達の友人でもある、日本人のマーサさんが、オフィシャル艇からの大声での応援だけでなく、陸の上でも、僕らの為に、心から喜びながら、いつも笑顔でサポートで走り回ってくれたのには本当に嬉しかった。

そして、もう一人、今回偶然が重なり、僕らの伴走艇にサポートクルーとして乗ってくれたTepa の存在は大きかった。

Tepaは、サーフスキーのタヒチアンのチャンピオンでもあり、Hawaiki Nui Va'a でも何年か前にHuahineのチームで優勝しており、Hawaiki Nui Va'a はもう15回以上も渡ったことがあるというタヒチでは知らない人がいないくらいの Super Aito(ヒーロー) だ。



そんな彼が僕らのチームにつきっきりで、アドバイス、サポートしてくれたことは、幸運以外のなにものでもなかった。彼は、単なるアスリートではなく、スピリットも素晴らしい人だった。

僕らが常々思っていることと同じくヴァアを単なる移動手段とか、競争の為のマリンスポーツの道具と思っていない人なのだ。

レース前日の夜のミーティングでの彼の言葉は、ヴァアと、海や天地自然に対する畏敬の念や、古代の海洋民族に対する憧れと尊敬の念が、常に強いメッセージとしてストレートに僕らの心に響いてきた。

『自然と戦っちゃいけない、海と踊るように。』

『宇宙のマナを感じて、自分のマナを強くして。』

『カヌーが行きたい方向に進んで。』

『一人で漕がないで、海峡を渡る時は、先人達のスピリットを常に感じて。』

Hawaiki Nui Va'a は、単なる競争じゃないんだよ。大切なのは、1番になることではなく、祖先の魂に感謝しながら、その海峡を最後まで諦めないで漕げるかどうか。大自然で起こる全てを喜んで受け入れて、情熱を持って、一漕ぎ一漕ぎ、楽しんで欲しい。』

英語が話せるTepaはフランス語しかわからないボートキャプテンJamesとオーシャンのサポートクルーとのコミニュケーションの為、ボランティアで自分から進み出てくれて伴走艇に乗ってくれることになったのだが、結局はこの3日間、オーシャンのコーチと言ってもいい存在となってくれた。そして各島々に自分の家があり、親戚や友達も多いので、僕らの為ずっと親身になってくれた。

TinoTepa。この2人との出会いは、僕らにとって、今後ヴァアを漕ぎ続ける上で、大きな学びになった。

僕は、Tino Tapaをはじめとするポリネシアの島々と、ヴァアに携わる多くの人々との出会いだけで既に大満足で、もうお腹いっぱいの感じだけれど、レースの内容に興味がある人も多いと思うので、僕なりにHawaiki Nui Va'a のレースの話しもしたいと思う。

Hawaiki Nui Va'a 初日1st レグは、Huahine島からRaiatea 島まで44.5kmを漕ぐレースだ。

クルーは、1番シートから、kent, dk, kei, dai, seiya, kenny(Peperu)。

今回のHawaiki遠征、キャプテンkei, コーチkenny, が中心になっての遠征であり、僕は、あくまでも1パドラーとしての参加だった。
常に決断をするのは、この2人に副キャプテンのseiyaを加えた3人での話し合いと決めていた。

おかげで、俺は自分勝手に瞑想をする時間もあり、老体の体調管理に集中できた。それに比べれば、kenny kei は大変だったと思う。10人のバランスと全員の顔色やエネルギーを察しながら、レース当日のクルーとシートを決断しなければいけないのだ。



ファーストレグの1番シートの大役は、まだ大学1年生18歳のkentだ。
4年前にテレビ番組の『世界不思議発見』で今回のHawaiki Nui Va'a の特集を観て、このレースを漕ぎたいからという理由でオーシャンの門を叩いてきた。言わば、オーシャンを、このHawaiki Nui Va'a へ引き寄せた立役者なのだ。

通常であれば、このレースは18歳での参加は出来ないのだが、海外からの参加で人が足りない(1チームにつき、12人まで連れてきていいルールになっている)のであれば特別に、ということで、今回日本から初参加のクルーの一員として、Hawaiki Nui遠征に参加したのだった。

そのアウトリガーカヌー歴4年たらずの大学1年生、今年の冬までは高校生だったkent が、初日のレース、Huahine 島からRaiatea 島までの45キロを1番シートで引っ張って行くことに決まったのは、前々日の練習からだった。



いつもポーカーフェイスのkentだが、緊張と興奮と不安がミックスされたせいだろうか、レース当日の朝、腹痛を訴えてきた。ほぼ全員、みながそれぞれにタヒチでの食事や水が合わずに、軽い腹痛があったので、あまり僕もkennyも真剣には聞き入れず、kentを予定通りに1番シートに座らせた。

ビデオで何度も観たことがあるが、やはりイメージ以上、Hawaiki Nui Va'a のスタートの迫力は凄いものだった。



良い位置を維持しながら、Huahine 島のラグーンのインサイドでスタートしたオーシャンのクルーとAutea(Va'a) は、あっという間に、かなりのヴァアに置き去りにされた。



前を行く80艇ほどのVa'a のウェイク(引き波)を上手くコントロールしながら、とにかくフリをしない様に心掛けて、クルー全員とAutea Taho'e (一つに)になり、最初の巨大なブイをスムーズに左に廻って、エメラルドグリーンのラグーンから外洋につながるパスを抜け、深い蒼の世界にRaiatea 島までの海峡に漕ぎ出でて行った。目指すRaiateaは、どこまでも澄んだ青い空に浮き出る様に黒々と見えていた。

ちょうど外洋に出たところで、アマ側からの大きなうねりが押し寄せてくるのを感じたところで、Peperu(ステア) kenny3番シートに座るキャプテンKeiのいつもの『Huti』という声に皆ながピタっと反応し、落ち着きシフトしなおした。

大きな外洋のうねりに呼応し、『dancing』を意識し、大海に浮かぶ木の葉の様なちっぽけなヴァア が大自然に翻弄されながら、かすかな足取りで漂う様に漕ぎ続けているのを感じた。

34艇のカヌーがフリ(ひっくり返る)しているのが見える度に『MIBmind in boat と自分達の舟の中に意識を集中して漕ぎ続けていくのだ。



北半球に位置するハワイのトレードウインド(貿易風)と向きは違うが、南半球に位置するここFrench ポリネシアでも、通常南東から北西方向に向かって、安定した風が吹く。Tahiti 島、Morea 島などをウインドワード(風上)諸島といい、BoraBora 島などをリーワード(風下)諸島と呼ぶ。

3日間で渡る4つの島々は、風上方向から風下諸島に向けて漕ぐような位置にあるので、大体のコースは、ダウンウインド(後方から風を受け)で漕ぐのだが、ラグーンや島を回り込んだりすると、どうしてもアップウインドの風向きで漕ぐことになる。

1日目のコースは、南寄りの南東の風だったので、最短で真っ直ぐRaiateaに向けて漕いで行くのではなく、かなり西寄りに最初の3時間を漕ぎ、その後、真後ろから風を受けてダウンウインドでRaiatea 島に航路を取るルートで行くことにした。

予想通り最初の3時間間はほとんどアマ側(左もしくは左後方)からの風波とうねりを受けながら漕ぎ続けた。この時、5番シートもPeperu Kenny のヘルプをする必要があるので、seiya5番シートに座った。厳しい角度からのうねりで、波に乗せるのは難しかっただろう。

耐えて耐えて、強烈な暑さとアマ側からのうねりに耐えながら、漕ぎ続け、やっと最後の1時間、最高の真後ろからのダウンウインドになった時には、クルー全員が消耗し過ぎていてなかなか爆発的にうねりに乗ることができずに、ただただ後ろから押される様にして、Raiateaのラグーンの中に入って行った。

1番シートで皆を必死で引っ張り続けたKentは、2番に座っていた僕から見て、もうボロボロのクタクタだった。だが彼は漕ぐ手を一度も止めることもなく、最後まで漕ぎ続けたのだ。本当に素晴らしい活躍だった。



僕も、生まれて初めて、ゴールと同時に飲んだ水をもどすほどに疲れ消耗していた。

1日目の45キロ、タイムは4時間2427秒で、97チーム中81位だった。トップとの差はほぼ1時間だったので、思っていた以上の結果だったと思う。
GPSをみると、僕らは最初の3時間かなり西寄りのコースをとり大回りをしたので、オフィシャルの距離よりも5キロほど長い距離の50キロ弱を漕いでいた。

最後の1時間、クルー全員がバテテしまい、ダウンウインドを思ったほどのスピードで波乗りが出来なかったことなどを考えると、もしかしたら最初から真っ直ぐ最短距離で漕いだほうが良かったかもしれないという、なんだか複雑な心境が残ったレースだった。



しかし、あれだけ全員が最後ヘロヘロに疲れ果ててゴールしても、自分達よりも遅いTahitiのチームが16チームいるということが明日への少し励みになったのは確かだった。

驚いたのは炎天下の海の上でずっとサポート船に乗って応援していたクルー達の消耗ぶりだった。どう見ても、漕いだクルーと同じかそれ以上に、5時間にも及ぶ日避けの無いサポート船の上で、熱中症にやられた感じだったのだ。グッタリ疲れきっている明日漕ぐ予定のクルーを見て僕は少し不安になった。

ノンストップで皆を引っ張り続けた18歳のkentは、かなり衰弱していた。偶然にも、ゴールした時に声をかけてくれた現地の日本人Yoさんの奥様がRaiatea 島に一つしかない病院で働いているということなので、お願いし、僕が保護者としてKentを救急で病院に連れていった。血液検査をし点滴を打ち、いくらか元気になった。念のためその夜、kentは用心をしてYoさんの家に一泊させてもらった。



翌朝、2nd レグは、ここRaiatea と同じラグーン内にある、tahaaまでの26キロのスプリントレースだ。“スプリント”と言ったけど、ほとんどハワイ島のコナレースに近い距離なのだから、ハワイや日本で言えば、れっきとしたDistanceレースの部類に入る。

それもラグーン内とはいえ、島と島の海峡を漕ぐわけだから、外洋のうねりは入らないが、潮流もあるし風もある。そして何よりもウェイク(引き波)が半端じゃないらしい。

そして、タヒチアンにとっては、スプリントなので、スタートからゴールまで、全力で抜きつ抜かれつ、常に周りのVa'a と競りながら漕ぐので、自分を追い込みすぎて失神者がいちばん多く出るコースらしいのだ。

1日目は朝の4時には起床して準備をしたが、2日目のスタートが10:00時ということもあり、のんびりと起床して、漕ぐ準備をした。2日目の朝は、通常のHawaiki Nui Va'a 2nd レグのレース前に、ラグーン内24キロのコースで、ジュニアチームと女性チームのレースが開催されるのだ。

僕らのAutea号と他のヴァアが騒然と並べられている会場に行ってみると、Huahineの宿舎で一緒だったMou'a Tamaiti No Paparaのジュニアチームが1位でゴールしていた。

Raiatea からTahaaまで漕ぐクルーは、hide, tomo, kei, kentaro, jin, dk, だ。



4番シートのKentaroは、カヌーを漕ぎだして、なんと半年でHawaiki Nui Va'a に参加する。海外最初のレースが、世界最高峰の、世界中のパドラーが誰でも漕いでみたいと憧れるHawaiki Nui Va'a なんて、すごいとか恵まれたと言うよりも、kentと同じように、このHawaiki Nui に導かれたのだな。と僕は勝手に思うのだ。

彼はフルタイムで葉山から東京に通勤するスーパーサラリーマン。今までの人生でこれといってスポーツの経験もない。オーシャンに憧れながらも、オーシャンで漕ぐことが出来るようになるまで、仕事や家族の環境などのバランスが整うまで、待ちに待って、2年間、オーシャンのHPとブログを読みながら待ち続け、満を期して今季からオハナになったのだ。

6ヶ月ほどしかトレーニングしていないが、彼の漕ぐ時のひたむきな姿は、すばらしい。最初から最後まで手抜きをしないで全力で漕ぐ。そして、何よりもオーシャンのスピリットを誰よりも理解して実践しようと心がける。だからこそ、ほんの6ヶ月でも、チームメイトからの信頼を得ることができ、このレースにも出場出来たのだと思う。

レースは、前半は風速が7メートルのダウンウインド。後半はTahaa島を周るコースなので、7メートルのアップウインド。珊瑚礁で出来た小島とRaiatea島の狭いスペースの中からのスタートということもあり、各チームはスタート地点に並び、強風の中、アマとハルが重なるほどに接近した状態で巧みにAutea をコントロールしながらスタートの合図を待つ。

26キロと短い距離のレースと言うこともあり、上位を狙うチームにとっては、スタートで前に出られるか、出られないかで、勝敗を左右する。

緊迫に包まれた場所の取り合いの中、おそらくフライングがあったのだろうか、スタートして200メートルほど進んだが、またスタートのやり直しとなった。全員がしぶしぶと200メートルもバックパドル。僕らはかなり良い位置でスタート出来たので、残念だったが仕方ない。



そして2度目のスタート。自分達が止まっているんじゃないかと思うほどに、横に並んでいたEDTShell Va'a やトップの数艇があっという間に見えなくなった。

後ろからの風に押されながら、引き波を乗り継いで漕いで行くのだが、せっかくのダウンウインドでも、あまり波に乗せることが出来ないというか、スピードが出ていないように感じるほど、どんどん周りのカヌーに引き離されていく。



2日目のこの日だけはサポート艇がカヌーの近くに近寄ることは出来ないため、遠くにはためく日の丸を意識し、微かに聞こえる『オーシャン』という声援を聞きながら、必死で前を行くカヌーに遅れまいと食らいつくように漕ぎ続けた。

Raiateaから離れ、Tahaaの直ぐ岸沿いの浅瀬を漕ぎ岸の横スレスレを漕いで行く。



びっくりするほどの人達の『ジャポーン』という声援に驚いた。僕らのヴァアに貼られた日の丸のステッカーが見えるのだろう。 おそらく5メートルも離れていない。子供とかは手が触れるぐらいの近さにまで接近してくる。イルカ達も一緒に飛び跳ねる。



素朴で自然に溶け込んだ昔ながらの原住民が住んでいそうな家がポツポツとあり、壮大かつシンプルで色鮮やかな教会が建つTahaaの海岸線を全力で漕ぐ。大海原を漕ぐ海峡横断とはまた違った感動と、何とも言えない初体験の興奮のうちに、あっという間にレース終盤にさしかかった。


今まで後ろから来たVa'a に抜かれてばかりではいたが、島をまわりこみ、風がアップウインドになったところで、前を行くカヌーに追いつき、抜き去り、またその前を行くカヌーに近づきつつあった。

すでにゴールを済ませた多くのカヌーのサポート艇やオフィシャルの船がひしめき合う中、いくつかターンもあった為、ゴール地点が確認しづらく、前のカヌーに追い付くことが出来ないまま、僕らはいつの間にかゴールをした。

2日目、26キロのタイムは2時間2658秒で97チーム中93位、トップとの差は約30分。30分の中に90以上のチームがひしめくことになる。こんなにレベルが高いレースは初めてだ。

昨夜のミーティングで、この2日目のレースは、距離的にもコンデション的にも、相模湾の風波の中でいつも漕いでいる僕たちにとって、距離もコンデションも身近に感じるレースなので、おそらく1日目よりもいい順位、80位以内には必ずゴール出来るだろうと期待していたのだが、そのレベルは半端じゃなく、僕らの後にゴールしたの4チームだけだった。

Peperu(ステア)をした自分の課題は、真っ直ぐ最短距離で進むのではなく、いかに複雑に交差し合うウェイクとバックヲッシュの中、自分達のVa'a を上手く確実に波に乗せて行けるか、という事。そして、漕ぎ手も僕も、26キロという距離をスプリントと自覚して、最初から最後まで中弛みなく全力を出し切って最後まで漕げる体力をつけるということだと思った。

初日は、水分補給のミスで腕もしびれてしまい、内臓機能も異常になってしまい最後の2時間は朦朧として何も覚えていなかったけど、やっと精神と肉体がここポリネシアの海と島に慣れてきたようで、余裕で自分達の漕ぎや、課題を見つめることが出来た2日目だった。


1日目も、2日目も同様に驚いたのは、ゴールしたヴァアを順番にテキパキと丁寧に持ち上げ運んでくれる、島の青年達の存在だ。彼らは狭く足場も良くない砂浜からゴール後の100艇ちかくのヴァアを運び、翌日の朝には海に出しやすい角度で、専用のウマの上に綺麗に並べてくれるのだ。こんな事は、Molokai Hoe でも、他のハワイのレースやカリフォルニアのレースに何回出場してもあり得なかったことで、長い距離を漕いで疲れきった僕らには、心から感謝してもしきれないほどに嬉しかった。



とにかく、TuTuさんをはじめ、今回の遠征で出会うヴァア関係の人達、島々で出会う人々の笑顔と、ホスピタリテイーには、クルー皆が心から感動していた。

小さな島で生きぬく為には、助け合うことが、一番大切なんだろう。それはそのまま、島のようなヴァアを漕ぐ時の精神とつながっているんだなあと、しみじみ感じた。

Tahaa島は小さな島で、ゴール地点から道を挟んで歩いてすぐの小学校の教室で一晩、ほんの12時間ほどを過ごしただけだったので、どんな島だったかも残念ながらあまり印象にない。

リーワード(風下)諸島に属する、同じ広大な環礁の中にある、Raiatea Tahaa は、太古は一つの島だったそうで、非常に神聖な島なのだ。

航海者のマラエ(聖地)Taputapuatea があり、ポリネシア発祥の地と言われている。昔は、Havai'i (ハヴァイ) と呼ばれていた。

Havai'i は現代のハワイの語源でもあり、Hawaiki Nui (Nui は島、ハヴァイキは理想郷、桃源郷の意味)と同じ意味らしい。古代、この島から、ハワイ、アオテアロア(ニュージーランド)、ラパヌイ(イースター島)、などの太平洋の島々に航海して行ったと言われているそうだ。

今回Tepaからとても興味深いタヒチに伝わる伝説を聞いた。

この古代のHavai'I (ハヴァイ)から5つの島(地域)に向けて、5人のヒロ(海の民)が航海していったそうなのだ。その5つの地域は、上の3地域、ハワイ島、ニュージーランド、イースター島と、残りの2つの地域が、今の南米と、今の日本、と語り継がれているそうなのだ。

日本に航海したのは、『ヒロヒト』と呼ばれる海の民族というか部族であるという伝説が残っているとのことだ。

歴史的根拠があるか無いかは別として、そのような伝説、この島から日本に渡って行った海洋民族の話を、最終日Bora Bora島までの58キロをノンストップで漕ぐ前日の夜に、Tepaがミーティングの最後に真剣な顔で話してくれた。彼は片言のわかりやすい英語で話してくれたので、クルー全員が聞き入り、それぞれ感じ入ってるようだった。

Tepaは言った。

『これは単なるレースじゃないんだよ。』

『ここから未知の世界へと、君達の島(日本)へと、太平洋を渡って行った君達の祖先になったかもしれない人達のことを想って漕いで欲しい。』

『この島々や海峡には、まだその魂が確かに残っている。目には見えないけども、彼らの営みや息吹を感じて、この海峡を漕いで欲しい。』

『もっと、もっと、地球と宇宙全体のManaを感じて、闘わないで、海と踊る様に漕いでごらん』

その夜、僕らの祖先かもしれない、海洋民族『ヒロヒト』のことを想いつづけ、想像しすぎて、僕はなかなか眠れなかった。

なぜTepaは、そんな話をしたのだろう?今思えば不思議だ。年配の長老やアンクル達がそういう伝説を話すのならまだわかるけども、彼はまだ30代前半の現役のサーフスキーのタヒチチャンピオンで、世界中を転戦するほどのプロのアスリートなのだ。勝つために海を漕ぐことを生活の中心としているパドラーなのだ。

彼と3日前に偶然に出会ったのも不思議な話しだが、彼ほどの実力と経験があるパドラーが日本から初参加で来た僕達に、こんな話をするなんて。

どうして、こういう伝説を、最後のミーティングで彼はしたのだろう。それとも、こういう言動や意識は、この島々で漕いでいるパドラーなら誰でも常々口にすることなのだろうか? それは定かではないけども、確かなことだけがある。

Huahine島で船を出してくれて僕らの漕ぎを見てくれたTino も、サポート船に乗ってくれたTepaも、何度も僕らに向かって言っていたことだ。

『天地自然のManaを感じて漕ぐ。』

『先祖のスピリットを感じて漕ぐ。』

少しこの話題が長くなったけども、このことは、僕にとって、今回のHawaiki Nui 遠征の中で、一番の学びであり、気づきになった。

最終日の朝は4時前には起きて準備をした。kentは顔色もよく元気そうだったが、今日は用心をし、サポートにまわってもらうことにした。初の海外レース、慣れない食事や環境の中で、18歳の彼は十分すぎるほどの経験をしたと思う。




最終の3rd レグ、Tahaa からBora Bora島までの未知の海峡横断、58キロのレグ、葉山、大島間よりも長く、Molokai Hoe とほぼ同じ距離を6人だけでノンストップで漕ぐレグだ。

最終ゴールを目指し、最終レグのクルーは、seiya, duke, dai, kei, hide, kenny が自然に選ばれた。実際、この6人だけが2日間を終えて、漕げる状態だったのだ。



クルーの誰もが映像で観たことのあるHawaiki Nui Va'a の最終ゴールシーン。
ヴァアが広く遠浅のエメラルドグリーンのラグーンに吸い寄せられる様に進み、人垣でできた花道をトエレ(タヒチのドラム)のビートが鳴り響く中をゴールしていく。タヒチアンじゃなくても、ヴァア を漕ぐ人間なら、誰でも経験したいと思うゴールシーンだ。

他のポリネシアの島から応援に来ていた地元の人が言っていた。『死ぬ前に一度は見ておきたい』とお婆ちゃんが言うので今回連れて来たんだよ。そんなカヌーレースが
Hawaiki Nui Va'a なのだ。

Tahaaのラグーンからスタートし、2日目のコースを戻る様にして、ラグーン内をRaiatea まで漕ぎ、Raiateaの沖にある、パス(ラグーンの切れ目)から、外洋に漕ぎ出でる。

Peperu kennyは、Tepaから絶賛されただけあって、確実に外洋のウネリに乗せていく。Kennyには得意なダウンウインドだ。容赦なく連続して後ろから『プッシュ』と声が聞こえる。

若いseiyaは、1日休んだだけあり元気がみなぎっていて終始頼もしく休みなくウネリを追いかける。53歳の俺には一番苦しい漕ぎ方だ。ピッチを上げてうねりをつなぐ為に、何度も何度もスプリントを繰り返すのだ。



後ろからの押しも素晴らしく、Auteaと6人が一つになって躍動しているのを感じる。どんどん風波に乗り、大きなウネリをつないでいく。ラグーン内での遅れを挽回し、前を行くヴァアに追いつく。


海峡に出てからは、サポート艇がAuteaの直ぐ近くにつき、終始誰かが声を出してくれる。ウネリに乗ろうとピッチをあげるたびに『イッ、イッ、イッ、』と自然にリズムを刻む声が出る。

サポート船からも同じように『イッ、イッ、イッ、』と声が聞こえる。今までで初めてサポートクルーとAuteaを漕ぐクルーが『TAHO'E 』になる。何度も何度も『一つに』なる。こういう感覚は初めてだ。10人が一つになって漕ぎ、波に乗っていく感覚なのだ。



他のVa'aに接近したり、ヘリコプターやテレビクルーが近づく度に、kennyから、『MIB』(mind in boat)と指示が出る。意識をカヌーの中にだけ集中し、ウネリとseiyaの肩だけを見つめ黙々と何も考えず漕ぎ続ける。



そして、『Huti』と声を出せば、皆なが一斉に、『Huti』と大きく声をだし、体を使って大きく引っ張る様に、マナを意識して漕ぐ。

そうしているうちに、スタートした 時から見えていたBora Bora 島に近づいてきた。海から壮麗に立ち上がる岩山はまさに神秘。波に乗るたびに、オテマヌ山がどんどん青い天を突くように近づいてきた。



もうすぐかなぁと思うところまで近づいたところで、漕いでも漕いでも、なかなか島への距離が縮まらない。Bora Bora 島を大きく囲む環礁沿いを大きく周り、西側にある環礁のパスからラグーンの中に入って行かなければ、島には上陸出来ないのだ。

島の南側にあたる環礁沿いのコースは、それはもう圧巻で、進行方向右側にあたる珊瑚礁に向かって、小山のようなウネリが滝のように水しぶきと轟音をたてながら崩れていく。

チラッと横目で見ると、その崩れる波すれすれのところを、僕らの他に2艇のヴァア が抜きつ抜かれつで進んでいる。さすがにそこでは近づけないのか、すべてのサポート船は大きく離れたところから見守っていた。

あまりの暑さと疲労もあり、リフレッシュの効果も考えて、何回目かになるwater drop (ハイドレーション交換) の指示がサポート艇から出た。ラグーンの中に入ると、ルールでwater dropは禁止になっているので、恐らくこれが最後のwater dropになるのだろう。



water dropの仕方はこんな感じだ。サポート船がVa'a Autea の後ろにまわる。そのタイミングで、交換をしたい人は自分のハイドレーションパックを海に落として流す。

もちろん他の人は漕ぎ続けながら、なるべくVa'a のスピードを落とさないようにする。サポート船は海に浮かんだパックを拾い集めて回収し、Va'a の前方に移動する。

サポートクルー数人は予備のハイドレーションパックやジェルなどを持ち海に飛び込む。同時にそれとは別に冷した水のペットボトルも一緒に持ち立ち泳ぎをしながら手渡しもしくは投げ込んでパドラーに渡す。

僕は、ハイドレーション交換もジェルも使用しないのだが、『冷水』は何度も利用した。これがなかったら今回漕ぎ続けることは出来なかったであろう。水温も気温も暑い中、冷たい水がこんなに気持ちいいと思ったのは人生で初めてといっても過言では無いだろう。冷えたペットボトルの水をまずは頭からかぶり、前のseiyaの首筋にも勢いよくかけてやる。そしてグッと一気に飲む。water drop の冷水のおかげで、苦しい状況から何度も生き返り漕ぎ続けられたのだ。

ラグーンに入ってからゴールに向けての最後の10キロほどは、ずっとアップウインドで漕ぐことになる。風が前から吹いてくるので、涼しくなる反面、潮の流れもあり、全員が疲れきっているせいもあって、なかなか前に進まない。



もうwater dropも出来ないし、サポート船が横についての応援もなくなってしまうので、精神的にも肉体的にもかなり辛くなる。外洋で競い合っていた他のチームもいつの間にか周りにはいなくなり、広大でフラットなエメラルドグリーンの海を、ただただ、風に向かって力なく漕ぎ続けるのだ。

ダウンウインドの時、元気だった後方からの声も聞こえなくなり、気合を入れても力強い返事がもどってこない。『逗子の北東風をおもいだせ!』といっても風にかき消されて返事が聞こえない。ただ黙々と淡々と漕ぎ続ける感じなのだ。


そんな一番苦しい状況で思い出したのが、昨晩のミーティングでTepaが話してくれた『ヒロヒト』の伝説だった。

もしかして僕ら日本海洋民族の祖先だったかもしれない『ヒロヒト』。
ポリネシアの海から日本列島を目指し、大海原を渡っていったと言われている民族。彼らの精霊はきっと日本に眠っていたのだろう。そのスピリットは今、彼らの故郷であり源でもあるこの島と海に、僕らと一緒に戻ってきているに違いない。



『ヒロヒト』のことを想うだけで、僕の身体にはパワーがみなぎり、暑すぎる太陽の光でさえもエネルギーに変え、腕が海に溶け込むように、僕はどこまでも漕いで行けそうに感じて来た。とにかくどこまでも全身全霊で漕いで行ける元気が戻ってきたのだ。



どーんと突き出た大きな岬を超えて、ラグーンの奥へ奥へと漕いで行く。海に浮かぶ多くの人影が見えてきた。近づくとそれは、浮いているのではなく、真白の浅瀬に立つ人々だった。

たくさんの子供達や女性達が思い思いに叫びながら手を振ったり、飛び跳ねたりして迎えてくれている。ジャポン!、オーシャン!、とアナウンスが聞こえてくる。トエレの軽快なビートに合わせる様に、俺たちの漕ぎのピッチも上がってくる。



6時間、ノンストップで漕いだクルーとは思えない、いつの間にか、生き生きとしたタイミングとピッチで、ゴールに立つ人にぶつかりそうになるまで僕たちは漕いでいた。

終わった。3日間、最初から最後までこの4つの島を、3つの海峡を、10人の仲間が一つになって漕ぎ続けた。それだけで十分だった。




Tepaが言う通りだった。これはレースじゃない。早いとか、遅いとか、勝とか、負けるとか、そんなレベルとはかけ離れた異次元での出来事だったように感じる。

達成感、とか、充足感とか、そんなのでもなく、ましてや、チャレンジ精神とか、冒険心とか、そんな、ありふれた言葉はまったく当てはまらない次元での出来事なのだ。

今は未だうまく説明でないけども、幸福感というか、総てを包み込むような深い愛や幸福に触れる感じなのだ。僕らの口からは感謝の言葉しか出てこない。3日間130km漕いだ後なのに疲れた、という言葉なんかまったく出てこないのだった。
今までヴァアと出会って34年間、ハワイ、カリフォルニア、日本で、一緒に漕いだ人達の顔が思い出される。Mauruuru roa! ありがとう。

ちなみに参考までに、3日目58.2キロのタイムは、5時間2547秒、トップとの差は1時間10分弱、順位は97艇中90位、だった。



3日間、129.2キロの合計タイムは、12時間1712秒、優勝したEDTとの差は2時間40分、総合順位は97艇中87位だった。

“タヒチ”と聞いて、碧い海とエメラルドグリーンのラグーンに、海上コテージ、華やかなタヒチアンダンス、高級な南のバカンスを思い浮かべるなら、この紀行文は期待はずれだったかもしれない。ごめんなさい。

たしかに、そういう風景もタヒチ、フレンチポリネシアの一部ではある。
でも、それは、ハワイを含めて、ポリネシアの島々を植民地化し、観光地化した白人、西洋人(日本人も含めて)、の勝手な妄想とイメージづくりであり、実際その島々には、まだまだ生き生きとした原始の自然と、文明人が立ち入ることが出来ない過酷な自然が残っていた。

今回の遠征期間中、リゾート『タヒチ』を感じたのは、レースが全て終了した翌朝、Bora Bora 島からパペーテに移動する飛行機に乗るために、空港に移動するフェリーと空港での待ち時間、たった3時間だけだった。

ソシエテ諸島、Hawaiki Nui (あえて、タヒチとは呼びたくない) の島々には、まだまだ海とともに生きる、島で生きる術を心得た、原住民、海洋民族が沢山存在した。

先祖代々、親子代々、強い漕ぎ手が育つという村々が、島それぞれにあり、そこでは、家族や親戚に暖かくサポートされながら、海を漕ぎ、島々を渡り続ける野性的な若者が育っていく。彼らは日常の生活の一部として、あたりまえのように毎日海を漕ぎ続けているのだ。僕たちが歯を磨くような感覚で・・・

ずいぶん前にハワイのクプナ達がよく言っていた話しを思い出した。
『ハワイアンはマクドナルドにドライブスルーする。タヒチアンはタロイモを育て、ポイを食べる。だから強い!』『ハワイアンはすぐにセイルをあげるけど、タヒチアンはどこまでも漕ぐ。だから強い!』

随分前に聞いた笑える話しだけど、それは今でも確かだった。たしかに、今回の遠征で、御馳走と言えば、タロイモとウル(ブレッドフルーツ)を蒸したやつだった。それらを何度も手掴みで食べたのだ。

何も文明や、進歩や発展、高度テクノロジー化を否定するつもりは毛頭ない。

でも、単純に、純粋に、『海を漕ぐ』能力を少しでも目覚めさせ、高めたいのであれば、今の日本の便利さや、物質的に豊か過ぎる生活環境、ネットやSNSで人と人とがつながっている状況は、百害あって一利無しだと思う。

地球表面の1/3を占める太平洋。その中にある絶海の孤島の島々を、ウネリや風や潮流や太陽を味方につけて漕いで渡る為には、壮大な大自然を舞台とするこの海峡を漕ぐ為には、現代の常識や価値観を捨てて、野性にもどり、海や自然と純粋に向き合うことが出来なければ無理だろう。そして彼らソシエテ諸島のパドラーに認められることは永遠にないだろう。

それが、今回奇跡的に出会った、TepaTinoが何度も何度も僕たちに伝えようとした。『Manaを感じて漕ぐ』『宇宙とつながって漕ぐ』ということだと思うのだ。

最後に、世界のパドラーなら誰でも知っている、今回も総合優勝したEDT Va'a 3番シート、キャプテンでもあるスーパースターのSteeve が笑顔で、表彰式の会場で僕らオーシャンのクルーに対して叫んでくれた。
『あんな凄い先進国日本から、この海に漕ぎに来てくれてありがとう!タヒチアン皆んなが感謝しているよ〜』。とても嬉しかった。

でもその時、僕は別の想いでいっぱいになった。いつの日か、彼らタヒチアンから『先進国日本人』でなく『同じ太平洋の海洋民族』と敬意を込めて、呼ばれる日が来るのだろうか?  きっと近い将来、伝説の海洋民族『ヒロヒト』の末裔として誇りを持ちながら、このポリネシアの海を漕ぐ日本人の集団が出て来るだろう。

そんな日を夢見ながら、伊豆半島の先端、ここ弓ヶ浜で、僕は毎日祈りを捧げ、オセアニアの島々に続くこの海を、1人裸で漕ぎ続けるのだ。


to oe parata'ito from Seiya Kawamata on Vimeo.